勉強は何のためにするのか

こんにちは。

 

前回は学歴という話でしたが、今日は勉強について書いていきます。

 

勉強は何のためにするのか、勉強は必要なのかというのはよく話題になるテーマではないでしょうか。

そして、結論を出すのが難しいテーマでもあると思います。

 

よく言われるのは数学は社会に出て使わないとか、歴史なんて勉強しても使わないとか。

実際に社会に出て学校での「お勉強」の知識を使う機会は多くないでしょう。

 

 

もちろん、お仕事で専門的に使われる方は別です。

しかし、多くの人にとって、図形の面積を求める機会はありませんし、古文を読む必要に迫られる機会もありません。

歴史の知識を試される機会もありませんし、物理法則を必要とする機会もありません。

 

小学校低学年レベルの基礎知識と、仕事をするための能力があれば、この社会で生きていくのに、さほどの問題があるわけではないでしょう。

ですから、勉強に関しても、必要不可欠かと聞かれれば、私はNOと言います。

 

では、なんのために勉強するのか?

受験のためでしょうか?

たしかに学力試験が課せられることが多いわけですから、受験のために勉強は必要でしょう。

 

でも、勉強をする目的がわからないのに、学校に行くために勉強するっておかしいですよね。

勉強したいから、勉強する環境を求めて、そのために勉強するというなら、まだわかりますが、勉強する目的がわからない、勉強したくないのに、勉強する環境を求めて勉強するっておかしくないですか?

 

学歴のためだよという方もいるかもしれませんが、たかが学歴のために十年以上も嫌いなことを続けるって私には理解できません。

だって、そんな時間あったら好きなことを究めた方がよっぽど武器になりそうじゃないですか?

 

嫌いな勉強を嫌々やって、大して行きたくもない学校に行って、それでも、周りと同じように就職活動した結果、自分が本当にやりたい仕事をできて、欲しいだけのお金を稼いでという人はほとんどいない。

妥協するのが悪いとは言いませんが、学歴を手に入れるための勉強だとしたら、手に入るのはその程度のものだということです。

 

では、なぜ勉強するのか? 勉強するということ自体の意味はどんなことなのでしょう。

勉強することの意味は当然科目によっても多少意味があると思いますが、ここではできるだけ共通する部分を書きたいと思います。

 

私は、勉強というのは知識をつけることが目的ではないと思います。

考え方、学び方、話し方、伝え方、話の聞き方などなど。

 

先生の話を聞く、クラスメイトの意見を聞く。

それに対して、自分で考えてみる。

疑問があれば、質問しに行ったり、調べたりしてみる。

 

ある問題に対して、自分で考えて解いてみる。

その際に、感覚に頼るのではなくて、論理的に考える。

そして、自分だけがわかるのではなく、相手にもわかるように説明する、解答をつくる。

 

勉強というのは、本来、人が社会で生きていくために必要な力を養うために、非常によくできたものだと思うのです。

だからこそ、こどもたちに他の手段ではなく「勉強」という手段を軸に据えて成長を促してきたのだと思います。

 

教育の現状に対する様々な批判がありますが、私は「お勉強」が必ずしも悪いとは思っていません。

例えば、一方向ではなく、双方向のアクティブラーニングを!というようなことが叫ばれていますが、一方的に話しているように見えても、生徒の反応を見ながら、生徒の興味を引き出そうとされている先生はたくさんいると思います。

形式だけ、生徒が話し合うようなものにしても、前提の知識がなければ、建設的な話し合いは難しいかもしれませんし、論理的な考え方がわからなければ、意見発表会にしかならないでしょう。

 

もちろん、今の学校教育が完璧というつもりはありません。

先生の話を受動的に聞き、(あるいは聞かずにただ座り)自分の考えを持たず、覚えたことをただ答案として書き写す。

そんな人が多いのも事実でしょう。

 

そして、「お勉強」だけができる、つまり自分で考えることをせず、頭を空っぽにして、知識を詰め込んで、それを吐き出すということが得意な方々が「受験」という狭い世界で戦い、社会に出たら何の役にも立たない、言われたことしかできない。

それはたしかにそうなのかもしれません。

 

でも、それは「お勉強」が悪いわけではないと思います。

知識を身につけるというだけではない、それよりさらに大事なもの。

それを意識させられていないことに問題があるのであって、「お勉強」を中心に据えることが問題なのではないと思います。

 

ですから、アクティブラーニングとかに飛びついて、見た目のメッキを施すことが必要なのではなく、生徒が、先生が、社会が何のために勉強をするのかを見つめなおすことこそが必要なのだと私は思います。

 

詰め込み教育ゆとり教育のどっちがいいのか、ゆとり世代だからダメなんだみたいなことをいう方がいるかもしれませんが、どっちがいいとか悪いとかではないと思います。

 

教育、勉強の目的に対する議論が十分にされていないなかで、ある施策でうまくいかないから、違うことをやってみる。

この考え方自体がおかしいのであって、目的が明確でないままに手段だけこねくり回してどうにかしようとしても無理がある。

 

教育、勉強の目的が曖昧なままなら、もしかしたら、詰め込みの方がいいのかもしれません。

詰め込みだろうが、ゆとりだろうが身につくのはせいぜい知識だけなのですから、それなら知識が多い方がマシでしょう。

また、覚える量が多いほうが、大変になるので、より頑張らないとこなせない。

だから、多少は頑張りとか手際の良さとかが身につくかもしれない。

 

でも、そんなのは五十歩百歩の世界だと思います。

どちらにしろ、よくわからず知識を入れているだけというのには変わらないのですから。

 

そうではなく、何のために勉強をするのか。

それをもっと真面目に見つめなおす必要があると思います。

 

これは専門家の方だけではダメです。

大学の先生方は既に真面目に考えているのでしょう。

私は法学部ですが、教育学部の授業にお邪魔したことがあり、専門家といわれる方々が真面目に考えていらっしゃるのを見ました。

 

でも、社会の大部分の人は、専門家の先生方ではないわけです。

その「普通の人」が考えなければ、勉強への向き合い方が変わることなんてありえない。

 

そして、勉強する意味を真面目に見つめなおしたうえで、どういう風に学ぶべきなのか、どういう教育体制であるべきなのかということを議論する必要があると思うのです。

 

そうやって、考えて、なおゆとり世代が~と言えるのでしょうか?ゆとり教育が悪いと言えるのでしょうか?

たしかにゆとり教育はうまくいかなかったのかもしれません。

でも、それはゆとり教育という手段が悪かったのか?目的が定まらないままに始めたことが悪かったのではないか?

 

私は幸い、勉強はできましたし、勉強が嫌いという人間ではありませんでした。

でも、だからこそ、勉強する意味について深く向き合ってこなかったという反省があります。

 

学ぶということはあらゆる生物に存在する営みかもしれませんが、直接生死に関係しない「勉強」という営みは、おそらくあらゆる生物に共通しているわけではない、もしかしたら人間特有のものかもしれません。

 

勉強は何のためにするのか?

あなたはどう考えますか?

 

学歴は必要か?

こんにちは。

 

今回は前々回のマウンティングに関連して、その代表格ともいえる学歴の話を書きます。

 

学歴という言葉は読んで字のごとく学業に関する経歴という意味ですが、大卒、高卒、中卒といった、最終学歴のカテゴリを指す場合もあれば、~中学、~高校、~大学といった学校名を指す場合もありますが、いずれにせよ、この「学歴」という存在がある程度意識されていることは否めないでしょう。

 

それは、学歴なんて関係ないということが声高に主張されていることからもたしかでしょう。

学歴なんていらない、学歴がなくてもこれだけ成功してるという主張がされるということはそれだけ学歴というものが社会において意識されているのでしょう。

 

さて、学歴は必要なのか?なんの役に立つのか?

これは簡単に答えられるものではありません。

おそらく、「いい高校、大学」に入って、「いい会社」に就職するなどというモデルケースが成り立つわけではないでしょう。

 

そもそも「いい」ってどういうことかみたいな話もありますが、その話はまた別の機会にして、ここではとりあえずステレオタイプな「いい」つまり高校なら御三家とか、大学なら旧帝大早慶上智など?、企業なら大企業というものを採用するとしても、やはりあてはまらない部分があるでしょう。

 

実際、私の周りの東大生を見ても、名門高校出身の方はたしかに多いですが、全員が希望する企業に行けているわけではないですし、大企業ばかり希望しているわけでもないと思います。

学歴によって就職が決まるということはないでしょう。

 

では、学歴には意味がないのでしょうか。

これについては、残念ながら(嬉しい人もいるかもしれませんが)影響はあると思います。

 

就活ということについていえば、同じくらいの印象だと学歴はアドバンテージになりうるとやはり感じますし、書類審査など初期段階をクリアしやすいのはおそらく事実です。

十分条件ではないですが、必要条件のような面は多少あるかもしれません。

 

また、ギャップという意味でも役に立つことがあります。

世間での大学のイメージというのは良いものも、悪いものもあると思うのですが、有名大学ほどイメージがある程度形成されているので、そのイメージをうまく使うと印象を残すことができます。

 

例えば、東大であれば、真面目、頭がいいという良い?イメージと、コミュニケーション能力が低い、頭が固い、感覚がずれているなどの悪いイメージがあるのでしょう。

(ちょっと違うかもしれませんがそこはお許しください)

 

そのため、特にアピールしなくてもたぶん真面目だし、頭もいいだろうと思ってもらえますし、逆に悪いイメージにあてはまらないとギャップが生まれて、よい印象が強くなります。

 

実際、私は就活中に東大生なのに「普通に」コミュニケーションができると驚かれたことが何度もありました。

特に話が上手いと言われたのでなく、「普通」だというだけで、良い印象をもってもらえる。

これは正直非常に楽です。

 

○○大学の学生は~というレッテル貼りは適切だとはあまり思いませんが、こういうイメージを利用できるのはある程度名前の知れている大学の特権かもしれません。

 

もちろん就活以外にもメリットはたくさんあります。

私は東大しか知らないので、比較してということはできませんが、先生方のレベル、授業のレベルは高いと思いますし、周りの学生のレベルもやはり高いです。

話していて刺激になり、自分ももっと頑張らねばと思える。

また、研究費などもやはり充実しているのは否めないでしょう。

 

さらに、人脈という意味でも、将来的に社会を動かしていくような人物と出会う可能性が高い。

私は法学部ですので、将来弁護士とか官僚になるだろうという方がたくさんいます。

 

このように学歴がもたらすメリットは正直たくさんあります。

でも、学歴を求めることで失っている物もたくさんあるはずです。

 

また、今挙げたようなものは学歴に頼らずとも、手に入れる方法はあるでしょう。

 

私は、学歴というのは自分が武器を手に入れるための手段の一つに過ぎないと思います。

私は勉強はできましたが、他のことはできなかったから、学歴という手段を使って、他の欠点を補完しました。

例えば、コミュニケーション能力に長けている人であれば、学歴なんかなくても面接に合格できるかもしれませんし、行動力に長けていて様々な経験を積んでいれば学歴なんかに頼るよりはるかに充実しているかもしれません。

 

学歴なんてすごくもなんともないのです。

ただ、得意なことが勉強だった人の集まり。

勉強しかできない人のための救済。

その程度のものです。

 

学歴は必要か?

その問いに対する私の答えはNOです。

必要ではない。

 

でも、あって得することはいっぱいある。

私はもし、勉強できるというのが役にたたない社会だったら、かなり困っていたでしょう。

私のような特に取り得もない人間が、能力があるように飾れるメッキ。

 

学歴とはその程度のものですが、そのくらいの価値はあるもの。

私はそう思っています。

自分を好きになること

こんにちは。

 

前回、マウンティングについて書きましたが、そこで自分を好きになれるといいのではというようなことを少し書いたので、今回はそこを深掘りしてみたいと思います。

 

まず、自分を好きというのはどういうことかという話を少ししたいと思います。

自分を好きということは、ナルシストなどと言われ、あまり良いイメージがないかもしれません。

しかし、前回も書いたように、私は自分を好きなことは素晴らしいことだと思っています。

 

ただし、この自分を好きということの定義は注意が必要です。

私が言う、自分を好きというのは、自分の価値を認識しているというようなことを言っているのであって、自分の利益のみを追求するということを言っているのではありません。

 

自分の価値を認識しているというのも少し語弊のある言い方な気がしますが、自己肯定感があるというような意味が近いかもしれません。

 

どうしたら自分を好きになれるのか?

これはなかなか難しいことのように思います。

私自身、残念ながら自分のことを好きとはいえません。

ですから、回答を持ち合わせてはいません。

 

自分の長所ということなら、思いつかないわけではありませんが、全体として好きかといわれると、残念ながら…

自分を好きになろうとして、自分の良い点を挙げていっても、自分の全部を肯定するのは難しい。

 

どうしたらよいのか今も悩んでいるのですが、私が好きな芸人さんである爆笑問題太田光さんは著書などで「何かを好きになれると、それを好きになった自分も好きになれる」というようなことを述べられています。(あくまでも私の要約ですので、正確に知りたい方は太田さんの本をお読みください。)

 

例えば誰かを好きになる。

そうすると、自分にしか気づいていない魅力を見つけられたと思う。

この世界も捨てたもんじゃないと思えると同時に、その魅力に気づけた自分も好きになれる。

 

私は、まだそこまでに至れていませんが、たしかにとても大事なことだなと感じました。

自分の好きなところを探すのもいいですが、自分の好きなものは何か、なんでそれが好きなんだろうということを深掘りしていくと、自分の新たな魅力に気づけるかもしれませんね。

マウンティング

こんにちは。

 

ある集まりで京大の院の方が、学歴マウントを取り続けていていたので、マウンティングについて書くことにします。

 

私はマウンティングについて、いいとか、悪いとか言いたいのではありません。

まあ、あまり気持ちの良いものではないとは思いますが、自分だって気づかないうちにしてしまっていることはあると思いますし、自分の価値を再確認するために有用だという面もあるかもしれません。

 

私たちは自分の価値を認識せずに生きていくことは難しいと思います。

自分の価値を見出せなければ、人は生きていく意味を見出せなくなっていきます。

これはかなり大変なことでしょう。

引きこもり、自殺、様々な犯罪など。

 

やや極論ですが、自分の価値を見出せなくなることはこれらを誘発しかねないと思います。

もともと「何か問題のある人」が引きこもりになったり、自殺したり、鬱になったり、罪を犯したり…するわけではないと思います。

私も含めた、どこにでもいるような「普通の人」がふと陥る身近なものだと思います。

 

話が少しそれましたが、自分の価値を認識することは非常に重要なことでしょう。

 

しかし、それは簡単なことではありません。

特に何も成していない「普通の人」にとって、なんらかの価値を見出すのは非常に困難です。

 

正直、私がいなくても社会的にはなんの問題はない。

私がなにか社会的な価値を提供できているわけではありません。

そう考えると「普通の人」にとって、絶対的な意味で自分の価値を見出すことは困難です。

 

また、周りの人とのかかわりという意味においても、私がいなくなって、悲しんでくれる人はいるかもしれませんが、だからと言って、私がいなくて困る人というのは、ほとんどいないでしょう。

 

もしかしたら、私だけかもしれませんが、自分の価値を認識するのは難しいことかもしれません。

 

そういう人にとって、他者との比較によって、自分の方が優れている感じ、そのようにして、自分の価値を認識することは必要なことなのかもしれません。

 

つまり、マウンティングは特別な「嫌味な人」がするものではなく、自分の価値を見出せない「普通の人」が自分を守るためにする「普通の行い」だと私は思います。

ですから、マウンティングする人を、殊更に敬遠する気には私はなれません。

むしろ、この人も「普通の人」なんだなと親しみを感じます。

 

とはいえ、不快に思われる方も多いでしょうから、自分はなるべくマウンティングしないように気をつけなくてはいけない。

そのためには、どうすればいいのでしょうか?

 

今までの話を踏まえると、マウンティングしなくても、自分の価値を認識できるようになればいいということになりそうです。

つまり、自分を好きになる。

 

自分を好き、ナルシストというといい印象がないような気がしますが、本当の意味で自分のことが好きというなら、非常によいことだと、私は思っています。

 

自分を好きな人こそ、マウンティングしてくるように思われるかもしれませんが、私はむしろ、逆ではないかと思うのです。

自分を好きになれないからこそ、マウンティングすることで、なんとか自己を保とうとする。

 

ですから、自分がマウンティングをしてしまい、周りに不快感を与えることを避けたいなら、自分の良いところを見つけ、自分の価値を認識する。

周りの人がマウンティングしてくるのが気になるなら、この人も辛いんだなと思えばいいと思いますが、我慢できないこともあるでしょう。

 

やめてほしければ、とにかくその人の良いところを見つけてみませんか?

そして、それを伝えてみませんか?

 

その人が、自分の良さを認識できれば、マウンティングなんてしなくてもよくなるのではないかと思うのです。

そして、その人の良さを見つけられたとしたら、それはあなたの素晴らしい能力です。

 

あなた自身もその人と仲良くなれるかもしれないし、自分のいいところも見つけられる。

 

私はそういうつもりで生きていきたいなと思います。

 

I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.(私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。)

こんにちは。

合気道の話が続いてしまいましたので、少し合気道から離れます。

 

前回、正しさとは?というような話題が少しあったので、それに関連する、僕が大事にしている言葉の話をしていきます。

 

僕が大事にしている言葉はタイトルにある"I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it."という言葉です。日本語に訳すと、「私はあなたの意見に反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」というような意味です。

フランスのヴォルテールの言葉という説もありますが、実は違うという説もあります。

 

私がこの言葉に出会ったきっかけのようなものは、思い出せないのですが、中学生くらいの頃だったような気がします。

政権交代東日本大震災、再度の政権交代

 

世の中が目まぐるしく動き、意見も激しく分かれている時代。

異なる立場の人を批判し、自分と同じ立場の人で閉じた世界を作る時代。

異なる意見を言う人を許さないじだい。

 

そういう怖さを感じていたからこそ、私はこの言葉に出会い、自分の中で大事にしていこうと思いました。

 

この言葉は民主主義の理念を表している言葉なのかもしれませんが、日頃の話し合いなどでも当てはまると思います。

 

政治的圧力とか、さらには言論統制みたいなことは起こらないかもしれませんが、反対意見を受け入れようとする姿勢は非常に重要だと思うのです。

自分と違う意見が出てくると、どうしても否定したくなってしまいますが、だからこそ意識して反対意見をとりいれようとしなければならないと思います。

 

議論があまりに片方の意見によりすぎているときは、本心とは違う意見でも、異なる意見を提示してみるなども必要かもしれません。

 

みんなが、場の雰囲気を無視して意見を出せる人ならいいですが、そうではないと思うので、本当の意味であらゆる意見を引き出すというのは非常に難しいものがありそうですね。

 

手加減

こんにちは。

前回、指導について思っていることを書きましたが、関連して手加減の話を書きたいと思います。

 

合気道は、型稽古のため、手加減するという事態が生じやすいという面を持っています。

良いこととは言えないですが、残念ながら事実です。

 

ただ、手加減が絶対的に悪いわけではないと思います。

他の競技であっても、初めのころは、負荷をかけず、形を教えて少しずつレベルアップするのに合わせて強度を上げていくということをすると思います。

 

しかし、合気道は試合がないために(富木流など試合がある流派も存在する)、全力の相手とやる機会が少なくなりやすいという問題を抱えているので、そこは注意が必要ですが、そこの話は型稽古について書いた記事に譲ります。

 

さて、手加減の話でしたが、先ほど書いたように必ずしも悪いことではありません。

先輩が全力で抵抗したら、ビクともしないこともあるわけで、技量のない後輩に対して抵抗し続けるのは、先輩の力を誇示するというつまらないプライド以外に意味がありません。

 

後輩がある程度できていたら、手加減してあげる方が、後輩の成長に資する場合も多くあります。

手加減という言葉を辞書で引くと、「物事をその場の状況に応じて適当に調節して取り扱うこと。」(旺文社第十版)とあります。

ただ、手を抜けばいいのではなく、適当に調節する。

これは必要なことだと思います。

 

一方で、後輩や弟子が先輩や先生に遠慮して十分にかかっていないのに、利いているフリをするような手加減も存在しているかもしれません。

 

あまり良くないと感じます。

もちろん、先輩や先生に技量がなく、自分が抵抗したら絶対に技をかけることができないというなら、抵抗するのは時間の無駄ですし、やられたフリをしていればよいでしょう。

 

しかし、基本的には全力で立ち向かう方がよいと思います。

そのほうが、先輩のためでもありますし、後輩の側にとっても、こういう相手に対してはこう対処するのだということを体感する貴重な機会です。

 

そもそも武道である以上、攻撃もロクにできないで、攻撃への対処だけ学んでも仕方ないと思います。

じゃあ合気道なんてやるなよという声も聞こえてきそうですが、以前のブログでも書いたように合気道は攻撃「される」のではなく、攻撃「させる」のです。

 

このままでは、自分がやられるかもしれないという状態に相手を陥らせるからこそ、攻撃させることができる。

そのためには、相手が何もしなければ、仕留めるだけの力量をもっていなくてはいけないと思います。

 

ですから、攻撃もできない合気道だけやっている人なんて、なんの意味もないと思います。

 

脱線しましたが、攻撃の仕方を学ぶことは非常に大事なことです。

それなのに、自分はやられ役と考えて手加減するのはおかしすぎる。

 

攻撃である以上、相手を倒すためにやらなくてはいけない。

ただし、相手の力量が自分より明らかに劣る場合は、怪我をさせないように調整が必要な場合が例外的に存在するだけだと思います。

 

後輩が全力で向かっていき、それで先輩が対処できないなら、先輩が悪いわけで、反省しなくてはいけないのは先輩の方です。

自分の技量のなさのために後輩に遠慮させてはいけない。

 

また合気道の話に終始してしましましたが、勉強などでも同じことではないでしょうか。

教師は、生徒の成長のために、時には手加減が必要な場面があると思いますが、生徒は手加減する必要はない。

全力で疑問をぶつけていけばいいのです。

 

それで答えられないなら先生が悪い。

特にプロとして、それで生活しているのですから。

 

ただ、こういう生徒が必ずしも好かれるわけではありません。

実際、私も高校時代、先生に議論をふっかけて、困らせてしまったことがないわけではありません。

幸い、度量のある方がそろっていたのか、目をつけられた記憶はありませんが、気づいてないだけかもしれません。

 

大学の先生方は、その点、優秀な方が多く、私ごときの疑問なら対処できるので、心配ありませんが。

 

 

指導

こんにちは。

 

前回、型稽古の話をしましたが、今日は指導ってどうしたらいいんだろうということを書きます。

 

今まで読まれた方はおわかりかもしれませんが、何か答えが出てくるわけでなく、こんな疑問を持っているというだけなのでお許しください。

 

私は部活では先輩という立場で、後輩の指導をしなくてはいけないのですが、どうすればいいのかいつも悩んでいます。

 

初めのころは、教えられることはできるだけ教えたいと思っていました。

しかし、私の合気道歴というのは大学から始まったものですから、何が正しいのかも迷うところが多々あります。

型の外見だけなら教えられますが、型にはそれ以上の意味がありますし、型を正しく正しく行うのはなかなか難しいのです。

 

そのため、正しいことを教えられるというのは諦めました。

では、どうすればいいのか?

 

何も言わない方がいいのか?

たしかに間違えたことを言って混乱させるのはよくないですが、間違った動きをしているのに指摘しないのも適切でない気がします。

 

一方で、間違えたことを教えてしまうとより取り返しのつかないことになりかねません。 

 

結局、自分の意見は正しいとは限らないという前提に立ち、自分はこう考えているけど、取り入れなくてもいいよというスタンスをとるようになりました。

言い訳っぽくなってしまい、話が長くなりがちという問題はありますが、難しいところです。

 

なぜこういうスタンスを取るようになったかというと、もちろん、間違えたことを教えてしまう怖さというのもあるのですが、それだけではありません。

 

僕自身、先輩であると同時に後輩でもあり、先輩方にご指導いただく機会もあります。

今は最上級生のため、そのような機会は多くはありませんが、先輩がいる頃は稽古をつけていただいていました。

 

ただ、自分の技量が上がるにつれ、正直言うと、先輩の技がかからない、その解釈はおかしいんじゃないかという場面が出てくるのです。

 

技量のある方であれば、私も頑張って抵抗して、それにどう対処するかを感じることで学ぼうとするので、私も一生懸命、技をかけられないよう頑張るのですが、正直大して技量のない方相手にそんなことをしても時間の無駄なので、かかっているフリをすることもあります。

そうすると、大したことない方の側から見ると問題なくかかっているということが往々にしてあります。

そういう方に限って、大して深く考えず練習してるので、浅い小手先のテクニックを教えてくださるのです。

 

それも無意味とはいいませんが、正直いうと、でも、あなたの技は全然利いてませんよと思ってしまう。

 

まあ、個人的には、そういう方のおっしゃることは無視すればいいだけで、合気道の稽古は、後輩が先輩のところに付きに行き(教えを請いにいく)、グループを作って稽古するのですが、そういう方には付きに行かないようになったので、実害はないのですが、後輩がもし素直な人間なら、そういうご指導に振り回されることもあるわけです。

 

そして、自分もそういう迷惑この上ない先輩になりうるのです。

ですから、これが正しい、こうするべきということは言いたくない。

これが間違っているということも言いたくない。

 

しかし、このような方法はとにかく長くなりがちです。

まわりくどくなりますし、どういう背景があってこのような考え至ったのか、さらには他の考え方としてどういう考えがあるのか、なぜその別の考え方でなく、この方法をとっているのか…といったことを説明することになりかねません。

 

でも、スポーツなどをやったことがある方ならわかると思いますが、体をとりあえず動かす方が、身につきやすい。

 

ここで、また迷いが生じます。

結局、ごちゃごちゃ言うより、何も言わないほうがいいのではないかと。

ただ、何も言わないというのは、何もしないのではなく、ヒントとなるようなことはすればいいのではと。

 

今は、後輩の技が利いていなければ、多少抵抗しつつ、相手のレベルに合わせて、これくらいならいいかというレベルになるまで抵抗を続けるようにしています。(誰に対しても全力で抵抗していると、うまくいかないということしかわからず、どうしたらよいほうに近づいているかもわかりにくいので、それもよくないので。)

 

そして、相手の気づきのレベルに合わせて、ヒントとなることを少し言ったり、自分が技をかける側のときに、相手ができていない部分を意識して技をかけてあげたりというようにしています。

 

もちろん、相手のレベルにもよります。

1,2年生は、自分で気づくというようなレベルにはまだ達していない人もいますし、そういう場合は、うまくいかないと諦めてしまうこともあるので、塩梅が難しいところです。

 

今のような方法をとるようになってから、より後輩のことをよく見るようにはなったと思います。

どういうところができていないかということだけでなく、その人の性格なども細かく観察した上で、指導しなくてはいけないということを体感するようになりました。

 

ただ、今のやり方も、もしかしたら、正しくないと感じるときが来るかもしれません。

私は、いまだに迷いの中にいるのです。

 

指導というタイトルなのに、合気道のことばかりでしたが、合気道以外の指導についても当てはまることはあると思います。

 

自分での気づきに勝る学びはないのではないでしょうか。

それを引き出すための手伝いをすることしか、周りにできることはないのかもしれません。