合気道とは?② なぜ型稽古なのか。
こんにちは。
前回記事の続きとなっています。
今回もどうぞよろしくお願いします。
さて、合気道は型稽古をします。
つまりどういう攻撃をされるかわかっているわけです。
また、技をかけられる方(受け)もどんな技をかけられるかわかっています。
はっきり言ってやらせになりやすい。
合気道をやったことがなくても、もしかしたら演武動画をみたことがあるかもしれません。
中には、師範といわれるような人が、弟子をポンポン投げているような見るからに嘘くさいものもあります。
ですから、合気道はやらせだ、実際は使えないとおっしゃる方がいるのもわかります。
では、なぜ型稽古というやらせの生まれやすい形を採用するのか。
型稽古の良さとは何なのか?
もちろん技が覚えやすいというのはあるでしょう。
同じシチュエーションで繰り返すわけですから、実際に使えるかはともかく、技を覚えるためには適しています。
ただ、それが本質なのでしょうか?
それを考えるにはなぜ「型」があるのかを考えなくてはいけないと思います。
合気道は武道です。
武道とは何か?という問いを始めると長くかかりそうなので、今回は踏み込まず、相手を倒すことが目的というところにひとまずフォーカスします。
武道と戦闘術は少し違いもあるのですが、とはいえ相手を倒すことが目的であることに大きな違いはないでしょう。
その他の違いはひとまず捨象して話を進めます。
相手を倒すことが目的ですから、型通りにふるまうことに意味は何もないわけです。
合気道をやっている人間がこんなことを言うのは意外かもしれませんが、僕はこの意味においては型に意味を見出していません。
とっさに殴られたとき、合気道の技を使う、例えば小手返しという技がありますが、それを使って倒すのと、パンチをかわして顔面に一発入れて倒すのなら、倒せればどっちでもいいと思いますし、工程の多寡を考慮すれば、後者の方がいいと私は思います。
では、型には意味がないのか?
なぜ型稽古などという無意味なものを習得するための訓練をしているのか?
私は型を学ぶことには意味があると考えています。
理由として、とりあえず3つ挙げます。
まず、先人の知恵を引き継げるということです。
合気道に限らず、もっと言えば武道に限らず、型や作法というものは先人たちの知恵が詰まっています。
型という軸があることで、型を覚えるだけでもある程度のレベルに達することができますし、指導者などの環境によって身につくものが全く違うということも起こりにくいはずです。
(合気道は流派も多様ですし、正直なところ、違いがないかというと疑問がありますが)
外面だけなぞっていて、その知恵を理解することは難しいですが、なぜこのような動きをするか考えることで、知恵の結晶に触れることができます。
ゼロのところから探していくよりは、指標があるメリットはあるでしょう。
要は型があることでとっつきやすいとは思います。
次に、型稽古は反省や復習がしやすいということです。
他の武道などでも繰り返し基礎練習をする場合があると思いますが、これもある意味型稽古であり、合気道はその良さを積極的に取り入れているのでしょう。
最後に、合理的な体の動きを突き詰めるために、型は非常に有用ということです。
なんとなく反射で対処するというのが、危機にさらされたときに大事なのは事実ですが、そのやり方を突き詰めても、相手に勝てるか負けるかしか存在せず、勝てればよいとなります。
勝てればよいと思うかもしれませんが、その考え方は相対的な考え方であり、絶対的な意味で、自分のポテンシャルを最大限に引き出すことにはつながりにくいと思います。
型稽古は技をかけることが究極の目的ではなく、いかにその技を理解して、最適な体の使い方をするかが大切になりますから、合理的な技を追求するには適切だと感じます。
ただ、以上のメリットは、漫然と型をなぞっていても、残念ながら享受できません。
私は合気道歴は短く、合気道をやられているという方にそこまで会ったことはありませんが、正直なところ、漫然と型をなぞっていると感じることもあります。
それは他の方だけでなく、自分もそういう状態に陥っていないか反省しなくてはいけません。
私は合気道の型稽古には意味があると思っています。
しかし、型稽古は簡単になれ合いに陥る危険を孕んでいるおり、その怖さを常に感じているといっても過言ではありません。
その危機感、緊張感を常に抱き続けなくてはいけない、ある意味では型稽古でない競技より厳しい道だと感じています。
合気道とは?① 攻撃されるのではなく、攻撃させる
こんにちは。
前回、部活のことに少し触れたので、合気道について書くことにします。
合気道のイメージってどんな感じなのでしょうか?
正直武道の中でもかなりマイナーなものですし、あまり知らない人も多いのではないでしょうか。
ざっくりのイメージとしては相手の力を利用して、相手を倒す武道です。
パワーに頼ってねじ伏せるわけではないので、体格などに自信がなくてもできるなどという特徴もあり、護身術にも向いています。
ただ、これは表面的な説明であり、実際そうかというと単純に言い切れない面もあります。
(私は大学から合気道を始めたこともあり、他流派の合気道はあまり知りません。特に断りがなければ私が習っている合気道であり、そういう人もいるくらいの参考程度にお願いします。)
たしかに自分から仕掛けていくわけではありませんが、完全に受け身というわけでもないのです。
ここからは少し武道的な話になってしまうので、わかりにくいかもしれませんが、人と対峙するとき、間合いというものを取ります。
間合いというのはこの距離なら相手の攻撃(例えば突きや蹴り)が届かない、もしくは避けられるという距離のことと考えるといいと思います。
間合いと言われると難しく感じるかもしれませんが、ボクシングとかでも少し距離を探りながら打ち合ったりすると思いますし、格闘技以外でも、例えばサッカーなどで、これ以上相手が入ってくるとボールを取られるかもしれないというような距離感というものは存在するのではないでしょうか。
普段の生活でも、これ以上近づいてほしくないというような距離はあると思います。
そういうようなものの、武道版が間合いです。
前置きが長くなりましたが、間合いを取った状態でスタートします。
その上で、自分から軽く仕掛けます。
具体的には、間合いの中に一歩(半歩とかのこともあります。)進むなどがあります。
これを「誘い」と言います。
誘いは単に距離を詰めることが目的ではなく、相手が反応してこなければ、そのまま自分が突きや蹴りといった攻撃をできるようにしておきます。
相手としては、間合いに入られたので、何もしなければやられてしまう。だから何らかの対処をしないといけない。
もちろん、逃げることもできるわけですが、逃げ切れないとどんどん追い詰められるので、攻撃するしかないとなるわけです。
このように、自分から攻撃はしないのですが、自分からしかけて、攻撃されるのではなく、させる。
ですから、間合い、誘いというものは非常に重要になってくるわけです。
個人的には技を覚えることよりよほど大事だと思っています。
では、間合いというものをどう身につけるのか?
それを書くと長くなるので、またの機会に。
中途半端になってしまいましたが、お付き合いくださり、ありがとうございました。
ポンコツエピソード 永遠に着かない
こんにちは。
前回、私はポンコツと自己紹介した話をしましたが、ポンコツエピソードを書こうかなと思います。
今まで面倒くさい話が続いていましたが、そういう話にならないはずなので、お付き合いください。
一つ目は大学1年生のとき部活の合宿で勝浦に行った時の話です。
本来東京駅から特急わかしおに乗るはずだったのですが、東京駅を使ったことがほとんどなかった私は東京駅で少し迷ってしまい、特急を逃がしてしまいました。
そのため、普通列車を使うことにしました。
調べると外房線という路線を使うとわかったので、外房線のホームに行き、来た電車に乗りました。
結構遠いらしいので、本を読みながら乗っていたのですが、途中で電車が一旦止まったのですが、目的地の勝浦は終点より手前のはずなので、降りずにのっていました。
しばらくすると、動き出したので、安心して乗っていたのですが、しばらくするとまた止まり、今度は終点となり大網という駅で降ろされてしまいました。
そのため、一回降りて乗り換えたのですが、しばらくすると成東という駅で一回止まり、また進みだしたのですが、終点になり止まってしまいました。
そして、降りてみると…
なんと先ほど降りた駅と同じ大網駅でした!
これはマズい、明らかに迷ってしまったとスマホで調べたのですが、知らない土地ということもあり、〇〇行と言われてもよくわからない。
なんとかわかったのは千葉と反対方向に乗らなくてはいけないということだったので、千葉行と別のホームに行き、電車に乗りました。
乗っていると「次はぐみょう、ぐみょう」というアナウンスが聞こえ、なんか聞いたことがあるぞと思ったのですが、迷っているにしても、どうしようもないので、とりあえず乗っていました。
しかし、次の駅でまた止まり、駅名を見るとなんと成東駅。
つまり、さっき間違って乗っていた路線をまた使っていたのです。
再度調べたのですが、大網行の電車に乗ると検索すると表示されており、戻るの?と思いましたが、とりあえず大網行に乗りました。
結局、大網に戻って、外房線でなく、東金線という別の路線を使ってしまっていたということがようやくわかり、外房線に乗り換えて、最終的には着いたのですが、当初の予定時刻に4時間ほど遅れてしまいました。
別の路線に迷い込んだという発想がなく、この電車に乗っていれば目的地につけるはずだと思い込んでいたのが間違いでしたね…
自由とは?
こんにちは。
自己紹介についてくどくど書く回は終わったのですが、自己紹介つながりで今回の内容も書かせていただきます。
自由とは?
なぜこんなことを考えるのか、まず最近あった話をさせていただきます。
最近、内定をいただいている企業の内定者が集まる機会がありました。
そこで、自己紹介をしたのですが、その中で、「自分がこんな人だというのがわかるエピソードを話してください」と言われました。
今までの記事をもしお読みになっていれば、僕がこの手の質問を苦手としているのはわかるかとは思いますが、それはとりあえず置いときまして笑
そこである方が「私は自由人です」とおっしゃいました。
その根拠として、髪の毛を染めているということ、パーカーで来ていることを挙げていました。
(その日はスーツではなく、私服でと言われていました。)
しかし、私は疑問を持ってしまったのです。
茶髪だと、ビジネスカジュアルでなくパーカーだと自由だということになるのかと。
たしかに黒髪でスーツの人と比べると自由な人に思えるかもしれません。
でも、本当にそうなのか?
まず、茶髪やパーカーというのは典型的な「自由」ではないでしょうか?
髪を染めたり、ゆるい格好で過ごすというのはみんなが「自由」として思い浮かべるものの共通理解のようなものの一つです。
ですから、私はこれらは常識に縛られて「自由」だと感じてしまうのです。
世間のイメージする「自由」。
それをただなぞっているのが「自由」なのか。
だとしたら、結局「常識」の範囲をウロウロしているだけで、常識に凝り固まっている人間と全く異ならない、もっと言えば「常識」に縛られていないと感じているだけ、より質が悪いと感じてしまうのです。
自由というのは何なのか?
それを考え始めるとなかなかに難しいと感じます。
私は哲学を専攻しているわけではありませんが、法学部でも自由意志は存在するのかという議論を行います。
例えば、刑法の刑罰の意味というものを考えるとき、刑罰は過去の罪となる行為に対する応報であると考える応報刑論という考えがありますが、一見自明のようで、深く考えるとそうも言えません。
それが自由意志の議論と関係があるのですが、本当に自由意志は存在するのか、私たちが行動する上で、環境などの影響を受けていないと言えるか、自由意志がないとすれば、過去の行動を非難することはできないのではないか、そうすると過去の罪となる行為への応報という考え方で刑罰を正当化するのは根拠として弱いのではないかという議論がなされるわけです。(ものすごくざっくり書いているので、興味があれば、専門書を読むとか法学部の授業を聞くなどしてください。)
ですから、茶髪、パーカーを自由と考える人がいても、それは別にいいのですが、私にとってはそれを自由と捉えることはできません。
しかし、こう考えるのは面倒くさい。
こう考えると何も言えなくなってしまいます。
ここまでハードルを上げて、私はなんと自己紹介したのでしょう?
答えは「ポンコツ」です笑
ポンコツも考えていけば、それは本当にポンコツなのかと言えてしまうのですが、結局何も思いつかなくて、格好いいことだけは言いたくなかったんですよね。
どれだけひねくれているのか笑
こんな回答を出しておいて、「自由」と言った人を批判することなんてできませんね。
自己紹介が苦手③自分を表すと?みたいな質問にどう答えてもなんか違う気がする
自己紹介が苦手という話をずっとしていますが、とりあえず最後にします。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
もう少し、お付き合いください。
自己紹介、特に就活やインターシップの自己紹介では自分はこういう人だみたいなのを言う機会がありました。
ただ、人間ってどうしても一面だけではないですよね。
例えば、時にはサボり屋の面がでることもあるけど、努力家の面がでることもある。
明るく人付き合いするときもあるけど、気分が暗いときだってある。
そう考えると、私はこういう人というのはかなり難しいですし、何を言ってもある面では正解だし、ある面では不正解な気がします。
所詮自己紹介なんて自分をこう見てほしいというプレゼン大会なんですかね。
そう考えれば、適当なこと言えばいいと思えますが、本当の自分を伝えようと真面目に考えたら自己紹介なんておよそ不可能に思えてしまいます。
だとしたら、自己紹介をする意味なんてあるのか?
結局、付き合っていく中で理解を深めていくしかないなら、むしろ余計な先入観を与えることにしかならないのではとも思ってしまいます。
もちろん自己紹介が必要な場面もあるでしょう。
例えば、短い付き合いしか予定されていない場面や、瞬時にどんな人か判断することが求められる場面では自己紹介したほうがいいとは思います。
前者の場合、付き合っていく中で理解を深めることができない、予定されていないわけですから、多少誤りを含んでいても、とりあえず自分をどのような人と捉えてほしいか伝えることに一定の意味はあるでしょう。
後者の場合、例えば面接などでは長い時間かけて判断するのはコスパが悪すぎますから、次善の策としてその人が思う自分というものを聞くことで判断材料にすることは有用でしょう。
しかし、長い関係ならいらないのではと思ってしまいます。
もちろん、私はこんな人というのには多分に願望が含まれているでしょうから、その人がこうありたい、こんな人を好ましいと考えているという価値観をうかがい知ることはできますが。
こうやって考えると、自己紹介は名前、所属、よろしくお願いします、くらいでいいのでは、もし話のとっかかりが欲しいなら、出身とか自分の意志では選べない、価値観とかに関わらないものにしてほしいと思ってしまうのです。
自己紹介が苦手②マイブームはより難しい
こんにちは。
前回自己紹介は難しい、趣味って言われても…ってことを書きましたが、趣味にもまして難しいと感じているのが「マイブーム」です。
また例によって辞書を確認してみますが、「マイブーム」では収録されていないので、「ブーム」を調べてみました。そうすると、「急に需要が高まり、価格が上がること。また、にわかにはやり出すこと(旺文社 国語辞典 第十版)」とありました。
そうすると、「マイブーム=自分の中で、にわかにはやり出すこと」ということになりそうです。
曲者なのが、この「にわかに」「はやり出す」。
ずっと好きなものは含まれないですよね。
でも、ハマるものってそんなに頻繁に更新されなくないですか?
好奇心旺盛な方は、更新されるのかもしれないですが、少なくとも僕はあまり更新されません。
そうすると、そもそもマイブームなんてないことがほとんどです。
さらに、趣味と同じような問題はマイブームにも大抵当てはまります。
みなさんはマイブームを聞かれたら、答えていますか?
何かいい回答ってあるんですかね?
自己紹介が苦手①趣味ってどう答えればいいの?
自己紹介をしたので、関連する話題として、自己紹介って難しくないですか?ということを書きます。
自己紹介にはある程度の型はあり、それに従えば最低限の紹介はできるでしょう。
名前、所属、年齢、出身地などなど。
これらは単なる事実なので、特に考えなくていいのですが、これでなかなか終われません。
これだけではどんな人間かわかりにくいですもんね。
趣味、マイブーム、長所・短所など人となりがわかるような事も求められたりするのではないでしょうか?
これをどうしたらよいのかがわかりません。
そんなのありのままに話せばいいと思うかもしれませんが、意外と難しくないですか?
趣味をきかれたとき。
そもそも趣味ってなんなんですかね?
辞書を調べたら「職業や専門としてでなく、楽しみとして好むもの(旺文社 国語辞典 第十版)」とありました。
仕事としてやっていることが趣味でないのは感覚としてわかりますが、では部活はどうなのか?
個人的には部活でやっているものを趣味というのは少し違和感を覚えますが、だったら一番好きなものが趣味にならないのか?
部活をやめたら趣味になるのか?
僕はずっと野球をやっていましたが、その間は趣味は野球ですと言ったことはありません。でも、部活ばかりやっていましたし、部活をしていなくても、野球の動画を見たり、観戦したり野球関係のことばかりしていたので、野球以外に時間を割くものがほとんどなく、めちゃくちゃ好きなものがあるのに趣味はない?という謎の状態になっていました。
怪我で野球を辞めてからは、部活としてはやっていませんが、逆に野球をやらなくなったので、野球が趣味というのもおかしいですし、状況的に観戦にも行けないので、趣味は野球観戦というのも正しいか微妙な気がします。
また、趣味を言うと、こんな人と勝手に思われるのも苦手です。
例えば読書が趣味と言えば、インドアとか内向的とか知的だとか思われるかもしれません。でも、野球が趣味と言えば、活動的、スポーツマンという印象かもしれません。
しかし、そんな単純ではないですし、大概イメージがかけ離れたところに着地されるので、かなり困ります。
それで、思っていた人と違うとか言われても。
そっちの勝手では?
そうすると、趣味といっても相手のイメージを考えないといけない。
好きなことを言っていればよいわけではなくなってしまう。
また、みんなにある程度理解してもらうためには、ある程度みんながわかるもの、それが好きで問題がないものである必要もあります。(社会的に問題があるのは当然ダメですが、ちょっと変わった趣味というのは挙げにくいですよね)
例えば海岸で大声を出すとかだとちょっとヤバい人なのかなと思われますよね。
さらに言えば、趣味と言ってもレベルは様々ということです。
趣味が一致すると、それを好きな人ほど仲間を見つけたとばかりに話しかけてきますが、正直そんなに詳しくないものも多くあります。
例えば、僕は野球はかなり詳しいと思いますが、他のスポーツはダイジェストを見る程度で大してルールも知らないものもあります。
将棋もそんなにガツガツやっていたわけではないですし、最近は棋譜を追ったりしてないので、棋士の方についてもそこまで詳しくは知りません。
そうなると、勢い込んでこられて、ついていけないと申し訳ない思いをしたりする。
長くなったので、続きは次のブログにします。
でも、やっぱり自己紹介って難しくないですか?