現代文を学ぶ意味

こんにちは。

 

数学、歴史と来て、次は国語に入りたいのですが、国語といっても、現代文と古文では捉え方として、かなり異なるところもあると思うので、まずは現代文から考えてみたいと思います。

 

現代文といっても、さらに物語文、随筆、評論などがあります。

そのため、現代文とまとめては考えられない部分もあるのですが、細かく分断し始めるとキリがないので、今回はまとめて考えます。

特に言及がなければ、現代文といわれるもの全体を想定しているとお考えください。

 

前置きが長くなりましたが、本題に入っていきます。

現代文というのは、学校の勉強の中でもかなり特殊な面があります。

それは、答えがない、答えが一つではない問があるということです。

 

選択肢形式や書き抜き形式などでは、答えは一つになりますが、自由記述などでは答えは一つではありません。

 

そのため、はっきりしなくて嫌いだという人も多くいます。

たしかに現代文は特性上、満点をとりにくい科目です。

採点する際、要素を満たしているかというような方法で採点しますが、その要素というのはどうしても出題者の主観になってしまいます。

 

解説を聞くと、そんな気もするけど、でも違う気もする。

納得感の薄い教科といえるでしょう。

 

しかし、一方でこれらの特性を持つ現代文は、勉強を単なる知識の取得ではく、考え方の取得だとみなすとするならば、勉強の目的を達するのに非常に優れた科目だとも言えます。

 

物語文の登場人物の心情や、評論の筆者の主張など、少しずつ人によって捉え方に差異が生じることは当然でしょう。

それを議論を通して、様々な考え方に触れ、その考え方をトレースし、新たな見方ができるようになる。

 

現代文の勉強というのは、他の人間と生きていくうえで欠かせない議論、話し合いというものを行うのに、非常に優れたものだと思います。

ですから、現代文の授業で先生が一方的にこの部分はこういうことを言っているのだと解説するだけで、生徒はそれを暗記し、テストの答案に書くというのでは、なかなか難しいのも事実でしょう。

 

現代文の勉強は一人ではなかなかできないものだと感じます。

 

私が現代文を勉強してきたなかで、一番タメになったと感じたのは、大学受験前の時期の特別授業でした。

私が通っていた高校では、旧センター試験(現在は名称、制度とも変わっているようですが、当時はセンター試験でしたので、以後センター試験とさせていただきます。)終了後、志望校ごとに分かれて、大学別の対策授業が開講されました。

 

その国語の授業(古文、漢文を含む)は、予め過去問を解いてきて、お互いで議論するというものでした。

先生も回答を作ってきて、先生も含めた10人くらいの人数で議論していました。

 

大学受験向けのテクニックとかではなく、その授業が全員にとって、受験合格に近づけるものかは少々疑問ですが、それぞれの回答は非常に多様で、大変刺激的な時間でした。

この授業が誰もに対してベストだと言うつもりは全くありませんし、人数的にも小さい規模だからできた面もあると思います。

また、高校まで12年間にわたり、現代文、国語というものを勉強してきた基礎があり、また、志望校も同じでレベルとしても近かったため、議論しやすい環境にあったということも無視できないでしょう。

 

ですが、私にとっては、この授業を通して視野が広がったと感じられました。

現代文を教えることはとても難しい。

私は、この高校生活最後の時期の現代文を担当してくださった、国語の先生をとても尊敬していますが、この方も、普段の授業は特別なことをしていたわけではなく、他の先生方と同じような授業形式でした。

 

ですが、一方的に知識として読み方を押し付けてしまうのか、生徒が自分の読み方を身につけられるようになる手助けをするのか、それによって、同じような外見の形式でも大きな違いになると思います。

 

現代文の勉強は文章にして、何かを伝えようとしたものを、必死に書き手に寄り添って、その意見を理解し、さらには、その考えに対して批判的(否定するという意味ではなく、鵜呑みにしないという意味)に検討をするという営みと言えると思います。

 

これは、文章を読むときはもちろん、人の話を聞くときにも重要なことでしょう。

現代文は答えが一つに定まらないところに意味があると思います。

そもそも、実社会で「正しいこと」なんてほとんどわからないのですから。

 

ただ、それでも点数をつけなくてはいけないところに、現代文の難しさがあるのでしょう。

特に入試のように膨大な答案の採点をする場合、たとえ、検討に値する考えをもっていても、模範解答と異なれば、点数をあげないという対応をせざるを得ない。

 

そうすると、点数をとるためには、見るべきものがある、尖った良さを持つ答案より、だれもがなんとなく納得する、万人受けする回答を作った方が良いということになります。

万人受けする回答を模範解答とする方が、納得感がありますから、これは仕方のないことでしょう。

 

かなり前に読んだ本なので記憶は曖昧ですが、ある方が、本の中で、受験生時代に、自分の思ったことを書いていたら落ちた。そうではなく、こういうことを書いてほしいのだろうなということを書けばいいんだと気づいて、書いてほしそうなことを書いたら合格した。みたいなニュアンスのことを書かれていたと思うのですが、現代文の試験というのはそういうものです。

 

この話に対して、私は二つの含意があると思います。

まずは、現代文の試験など、選抜以外の意味はないということ。

理解度を試すというより、単にそれっぽい回答をつくれるかどうかしか見れない。

ですから、テストの出来が悪いからといって、現代文ができないことにはならない、むしろ、文章について深い意味では何も理解していないけれど、それっぽい浅いことは考えつく浅薄な人間の方がうまくいく、そういうものだと。

 

ただ、別の見方もできます。

文章を読むということは、まずは、書き手の意図を想像する営みです。

その上で、批判的な検討をできればいいですが、相手の意図を理解しようとすることなく、いきなり自分の考えを主張する営みではない。

そうだとすれば、現代文の問題として出題されている以上、少なくとも出題者にはなんらかの意図があるはずであり、それを読み取ろうとすることは現代文の趣旨と異ならない。

だから、出題者の意向を無視して、自分の思ったことを書いて不合格になるのも仕方ないという見方もできます。

 

私はどちらの面もあると思っていますが、現代文のテストでよい得点を取ることと、現代文と言う科目の趣旨を理解できていることは別物であり、その意味ではテストはテストとしての価値しかないと思っています。

ですから、テストで良い点数を取れなかったからと言って、自分の見方がダメなわけではない。

逆にテストで点を取れたからといって、偉いわけではない。

単に採点者と意見があった、さらに言えば、採点者とさえ意見はあっていないかもしれず、採点者が見て、それっぽいと感じる回答を作れたというに過ぎないのです。

 

ですから、現代文でよい点数を取れないからといって、現代文の勉強を放棄しては欲しくない。

また、現代文でよい点数をとれるからといって、それで満足してはいけない。

 

私は幸いにも点数は良かったのですが、だからこそ、自戒しなければならないのです。

私は何もすごくないのだと。

単に先生の顔色を窺うことに長けていただけなのだと。