勉強は何のためにするのか
こんにちは。
前回は学歴という話でしたが、今日は勉強について書いていきます。
勉強は何のためにするのか、勉強は必要なのかというのはよく話題になるテーマではないでしょうか。
そして、結論を出すのが難しいテーマでもあると思います。
よく言われるのは数学は社会に出て使わないとか、歴史なんて勉強しても使わないとか。
実際に社会に出て学校での「お勉強」の知識を使う機会は多くないでしょう。
もちろん、お仕事で専門的に使われる方は別です。
しかし、多くの人にとって、図形の面積を求める機会はありませんし、古文を読む必要に迫られる機会もありません。
歴史の知識を試される機会もありませんし、物理法則を必要とする機会もありません。
小学校低学年レベルの基礎知識と、仕事をするための能力があれば、この社会で生きていくのに、さほどの問題があるわけではないでしょう。
ですから、勉強に関しても、必要不可欠かと聞かれれば、私はNOと言います。
では、なんのために勉強するのか?
受験のためでしょうか?
たしかに学力試験が課せられることが多いわけですから、受験のために勉強は必要でしょう。
でも、勉強をする目的がわからないのに、学校に行くために勉強するっておかしいですよね。
勉強したいから、勉強する環境を求めて、そのために勉強するというなら、まだわかりますが、勉強する目的がわからない、勉強したくないのに、勉強する環境を求めて勉強するっておかしくないですか?
学歴のためだよという方もいるかもしれませんが、たかが学歴のために十年以上も嫌いなことを続けるって私には理解できません。
だって、そんな時間あったら好きなことを究めた方がよっぽど武器になりそうじゃないですか?
嫌いな勉強を嫌々やって、大して行きたくもない学校に行って、それでも、周りと同じように就職活動した結果、自分が本当にやりたい仕事をできて、欲しいだけのお金を稼いでという人はほとんどいない。
妥協するのが悪いとは言いませんが、学歴を手に入れるための勉強だとしたら、手に入るのはその程度のものだということです。
では、なぜ勉強するのか? 勉強するということ自体の意味はどんなことなのでしょう。
勉強することの意味は当然科目によっても多少意味があると思いますが、ここではできるだけ共通する部分を書きたいと思います。
私は、勉強というのは知識をつけることが目的ではないと思います。
考え方、学び方、話し方、伝え方、話の聞き方などなど。
先生の話を聞く、クラスメイトの意見を聞く。
それに対して、自分で考えてみる。
疑問があれば、質問しに行ったり、調べたりしてみる。
ある問題に対して、自分で考えて解いてみる。
その際に、感覚に頼るのではなくて、論理的に考える。
そして、自分だけがわかるのではなく、相手にもわかるように説明する、解答をつくる。
勉強というのは、本来、人が社会で生きていくために必要な力を養うために、非常によくできたものだと思うのです。
だからこそ、こどもたちに他の手段ではなく「勉強」という手段を軸に据えて成長を促してきたのだと思います。
教育の現状に対する様々な批判がありますが、私は「お勉強」が必ずしも悪いとは思っていません。
例えば、一方向ではなく、双方向のアクティブラーニングを!というようなことが叫ばれていますが、一方的に話しているように見えても、生徒の反応を見ながら、生徒の興味を引き出そうとされている先生はたくさんいると思います。
形式だけ、生徒が話し合うようなものにしても、前提の知識がなければ、建設的な話し合いは難しいかもしれませんし、論理的な考え方がわからなければ、意見発表会にしかならないでしょう。
もちろん、今の学校教育が完璧というつもりはありません。
先生の話を受動的に聞き、(あるいは聞かずにただ座り)自分の考えを持たず、覚えたことをただ答案として書き写す。
そんな人が多いのも事実でしょう。
そして、「お勉強」だけができる、つまり自分で考えることをせず、頭を空っぽにして、知識を詰め込んで、それを吐き出すということが得意な方々が「受験」という狭い世界で戦い、社会に出たら何の役にも立たない、言われたことしかできない。
それはたしかにそうなのかもしれません。
でも、それは「お勉強」が悪いわけではないと思います。
知識を身につけるというだけではない、それよりさらに大事なもの。
それを意識させられていないことに問題があるのであって、「お勉強」を中心に据えることが問題なのではないと思います。
ですから、アクティブラーニングとかに飛びついて、見た目のメッキを施すことが必要なのではなく、生徒が、先生が、社会が何のために勉強をするのかを見つめなおすことこそが必要なのだと私は思います。
詰め込み教育、ゆとり教育のどっちがいいのか、ゆとり世代だからダメなんだみたいなことをいう方がいるかもしれませんが、どっちがいいとか悪いとかではないと思います。
教育、勉強の目的に対する議論が十分にされていないなかで、ある施策でうまくいかないから、違うことをやってみる。
この考え方自体がおかしいのであって、目的が明確でないままに手段だけこねくり回してどうにかしようとしても無理がある。
教育、勉強の目的が曖昧なままなら、もしかしたら、詰め込みの方がいいのかもしれません。
詰め込みだろうが、ゆとりだろうが身につくのはせいぜい知識だけなのですから、それなら知識が多い方がマシでしょう。
また、覚える量が多いほうが、大変になるので、より頑張らないとこなせない。
だから、多少は頑張りとか手際の良さとかが身につくかもしれない。
でも、そんなのは五十歩百歩の世界だと思います。
どちらにしろ、よくわからず知識を入れているだけというのには変わらないのですから。
そうではなく、何のために勉強をするのか。
それをもっと真面目に見つめなおす必要があると思います。
これは専門家の方だけではダメです。
大学の先生方は既に真面目に考えているのでしょう。
私は法学部ですが、教育学部の授業にお邪魔したことがあり、専門家といわれる方々が真面目に考えていらっしゃるのを見ました。
でも、社会の大部分の人は、専門家の先生方ではないわけです。
その「普通の人」が考えなければ、勉強への向き合い方が変わることなんてありえない。
そして、勉強する意味を真面目に見つめなおしたうえで、どういう風に学ぶべきなのか、どういう教育体制であるべきなのかということを議論する必要があると思うのです。
そうやって、考えて、なおゆとり世代が~と言えるのでしょうか?ゆとり教育が悪いと言えるのでしょうか?
たしかにゆとり教育はうまくいかなかったのかもしれません。
でも、それはゆとり教育という手段が悪かったのか?目的が定まらないままに始めたことが悪かったのではないか?
私は幸い、勉強はできましたし、勉強が嫌いという人間ではありませんでした。
でも、だからこそ、勉強する意味について深く向き合ってこなかったという反省があります。
学ぶということはあらゆる生物に存在する営みかもしれませんが、直接生死に関係しない「勉強」という営みは、おそらくあらゆる生物に共通しているわけではない、もしかしたら人間特有のものかもしれません。
勉強は何のためにするのか?
あなたはどう考えますか?