上杉謙信

上杉謙信

 

私の出身である越後(新潟)の英雄といえば、やはりこの方でしょう。

諸豪族が乱立し、バラバラだった越後をまとめ、戦えば連戦連勝。

 

武田信玄と戦った川中島の戦いは特に有名ですが、その他にも、関東北条氏などとも争い、かなり恐れられたそうです。

 

人物的にも、かなり特徴がある人だったようです。

義を大事にし、信州、関東などの武将から頼られては出兵し、武田氏、北条氏などと戦い、戦に勝ってもとった領土を自分のものにするのではなく、頼ってきた人たちのために取り戻してあげたそうです。

 

終生、女性を近づけず、子も残しませんでした。

現代から見ても特徴的ですが、子を残すことが非常に重要だった当時から見れば、以上と言ってもよいでしょう。

また、酒を非常に好んだそうです。

 

世間的には、どちらかというと好意的な印象を持たれる人物のような気もしますが、私は、実はこの地元の英雄がさほど好きではありません。

(悪い人とか言っているのではなく、個人的な感想です。)

 

たしかに、自分の信じる正義のために、自分をも犠牲にし、私利私欲でなく、戦った好人物ではあるかもしれません。

 

しかし、彼は身内、部下から見れば、かなり迷惑な人物であったのではないかと思うのです。

 

まず、戦争というのは、莫大な費用がかかります。

越後には青苧という特産品があるなど、かなり豊かな地域であったため、莫大な戦費を賄えましたが、それでも繰り返される戦争がなければ、人々はもっと、楽に生活できたかもしれませんし、国力ももっと充実していたでしょう。

 

また、越後軍は傭兵軍団ではなく、農民を徴兵した軍ですから、それだけでも戦争の負担は非常に大きかったはずです。

戦争に駆り出される世代は、当然一番体力の充実している年齢層でしょうから、戦死したり、重傷を負えば、一家の生産能力に大きな影響を及ぼします。

 

そう考えると、ある意味戦争大好きな殿様である謙信公は名君とは言い難いと感じてしまいます。

 

また、戦争に勝っても、自分たちの領土とすることは稀なわけですから、戦争は実質タダ働きのようなものです。

とんでもないブラック体質と言えるでしょう。

 

さらに領土を取り返したもらった豪族にとっても、戦争に勝ったら、さっさと越後に帰るのですから、その後で、武田氏、北条氏が来るのは当たり前で、ありがたいけど、大してありがたくない。

戦っても負けるのはわかりきっているから、また逃げるか、相手に服属するしかない。

 

謙信公は、相手に寝返ったらブチギレるわけですが、そんなこと言われても小領主にとっては、守ってくれない謙信公が悪いのであって、ある意味大国の横暴です。

それなら、自分の勢力拡大という私欲のために戦っている連中の方がまだましかもしれません。

 

謙信公も外交政策などは行ってはいるものの、政治工作を行うということが多いわけではなく、何か起こると戦争に頼ると言えます。

その結果多数の裏切り者を出すわけでもありますが、戦略などあったものではなく、仮に室町幕府を中心とする旧秩序の再興を本気で目指していたとしても、そこに実はなく、空論を振りかざしていただけにすぎないと感じます。

 

自分の理想を他人に押し付け、それにそぐわない人間の考えを理解しようとしない。

戦争だけなら紛れもない天才であり、カリスマも持ち合わせたたぐいまれなる人物であったことは、その通りだと感じますが、一方で、あり得ないほどの暴君でもあったと思います。

 

上杉謙信は、他者のために奮闘した人物のように、言われますが、私は、自己の理想という利己のために、他人の犠牲も省みない人物だと感じます。

 

新潟で上杉謙信を嫌う人はあまり聞きませんし、だとすれば、意外と上杉謙信の統治というのは、農民などにとっても悪いものではなかったのかもしれません。

 

それでも、私は上杉謙信の義の中に、自分を突き通す横暴を感じ、それでも正義と信じるところに虚を感じてしまうのです。

久しぶりに

こんにちは。

前回からかなり期間が空いてしまいました。

 

何があったかというと、パソコンのキーボードの調子が悪く、全く反応しなくなってしまっていました。

 

原因はよくわからないですが、windows updateをして、しばらく経ったら、治ったので、そのあたりに問題があったのかもしれません。

 

パソコンが使えないと、やはり不便だなと感じました。

どうしてもスマホとパソコンに頼って生活していますよね。

 

授業を受けたり、ミーティングに参加したりするのにも、パソコンが必須です。

オンラインが当たり前になっていくことが、予想される中、IT機器のインフラとしての重要性がますます高まっていきそうですね。

外国語を学ぶ意味

こんにちは。

 

今回は外国語について考えてみたいと思います。

学校で勉強する外国語といえば、英語が主だとは思いますので、英語を軸に考えますが、英語だけに限る話でもないのかなと思っています。

 

外国語については、勉強する意義を否定される方は少ないかもしれません。

学校で勉強する科目の中でも、英語は何に役立つかが、比較的明確に見えやすく、グローバル化が進む現代において、英語が必要なのは、理解しやすいと思います。

 

では、仮に同時翻訳が可能になり、その質も細かいニュアンスの取違がなくなったとしたら、つまり、知識としての外国語に意味がないとしたら、外国語を学ぶ意味はないのでしょうか?

 

私は、そんなことはないのではと思います。

言語はコミュニケーションの手段だと前回書きましたが、それはあくまで、表面上の話です。

 

私たちは物事を捉えるとき、言葉を使います。

言葉があるから、私たちはそれぞれの物体を分類して認識できるのではないでしょうか。

私は言葉というのは、物事の認識の仕方をも左右すると思います。

 

有名な話としては、虹の見え方は言語によって異なると言います。

日本人が虹を七色だと見るのは、七色の色があてはめられているからかもしれません。

 

また、言語の違いではありませんが、道端の草を見て、「雑草」という言葉で捉える人と、種で捉える人では見え方も違っているでしょう。

 

少し話がそれましたが、言葉というのは、私たちの者の捉え方と深い関係があります。

ですから、違う言葉を学ぶことは、違うとらえ方を学ぶことになると思うのです。

 

言葉はコミュニケーション手段でしかないかもしれませんが、それを学ぶことは、自分にない考えに触れ、世界を広げることに繋がると私は思います。

そして、さらには、自分のことを見つめなおす機会にもなると思うのです。

 

世界には様々な言語がありますが、その言語は現在急速に消滅しています。

コミュニケーションをとるという意味では、むしろ望ましいことなのかもしれません。

みんなが同じ言語で話せば、意思疎通の壁がなくなるとまでは言わなくても、小さくなるのですから。

 

けれども、言語を失うことは、その言語とともにあった一つの豊かな世界を失うことにもなります。

その意味をもっと深く考えなくてはいけないと私は思います。

 

日本でも、英語を公用語とする企業も増えていますし、外国企業との取引なども当たり前になってきており、もはや英語を初めとする外国語を学ぶことなく、生きていくことは難しくなりつつあります。

 

学校教育においても、英語教育は重視されており、英語を学び始める年齢はどんどん早まっていますし、今後も早まるかもしれません。

けれども、日本語の教育をおざなりにして、英語教育のみに力を注ぐ決断をするのだとしたら、日本語を、日本語とともにあった、文化、世界を捨てる覚悟が必要だと思います。 

 

外国語を学ぶことは、母語を見つめなおすことであり、自らが生きてきた文化を、世界を見つめなおすことであり、さらには自分自身を見つめなおすことなのではないでしょうか。

古文を学ぶ意味

こんにちは。

 

シリーズのようになってしまいつつある、~を学ぶ意味ですが、今回は古文について書きます。

 

古文を学ぶ意味として、現代文と共通する意味も当然あるでしょう。

古文はすらすら読めれば、普通の文章なわけで、読解という意味では、現代文と変わらないわけですから。

 

しかし、なぜ昔の文章を学ばなくてはいけないのか。

さらに、古文を読めなくても問題ないのではないか。

他の人の考えに触れるだけなら、現代文を読めばいいですし、時代の異なる文章を読むことに価値があるとしても、(例えば歴史を学ぶ意味のところで触れたような先人の知見に触れるということなど)誰かが現代語訳してくれたものを読めばいいではないか。

 

趣味で古文を読んだり、職業柄読んだりするほんの一部の人を除けば、学校以外で古文に触れる機会はそうそうないわけです。

それなのになぜ、古文を学ぶのでしょうか?

 

まず、原文を読めるのと、現代語訳されたものを読むのでは質が違うということはあると思います。

これは外国語にも共通する話ですが、訳されたものは、訳者の判断が入り込むことは避けられず、原文と全く同じニュアンスにはならないでしょう。

また、外国語の方がより顕著ではありますが、古文であっても、現代語と1対1で対応するわけではなく、言葉を置き換えるときに、含意に多少の変化が生じてしまうことは避けられません。

 

ですから、本当に書き手の思いに触れたいのであれば、原文を読むことは大変大事でしょう。

ただし、学校の授業くらいで原文をすらすら読めるわけではないでしょう。

また、書き手の思いに触れたいという方もそう多くはないでしょうから、これだけを理由とするのは難しいと思います。

 

私がより重要だと考えるのは、言語について深く知るのに、古文を学ぶのは有用だということです。

言語はコミュニケーションを助ける手段にすぎませんが、だからこそ、言葉について考えることは、コミュニケーションにおける重要な示唆を与えてくれると思います。

 

例えば、言葉の乱れというのは、よく言われるテーマですし、実際にコミュニケーションに問題を来しているのであれば、それは言葉の乱れがけしからんとかいう次元の話ではなく、世代間でのコミュニケーションを妨げているという点で大きな問題といえるのではないでしょうか。

 

しかし、言葉の乱れというのを考えるとき、何を基準に乱れていると判断するのかは非常に難しいものです。

元々の日本語というものがどこにあるのかは言語を専門としていない私にとっては、あまりわからないものですが、少なくとも古文の世界の日本語と今の日本語は大きく違っており、古文の世界から見れば、今の日本で飛び交っている言葉はすべて乱れていると言えるかもしれません。

 

古文を勉強された方ならわかるかと思いますが、古文といっても、源氏物語などの平安期の文章と平家物語吾妻鏡などの鎌倉期の文章、太平記などの南北朝室町期の文章、塵芥集や今川仮名目録などの戦国期の文章、東海道中膝栗毛奥の細道などの江戸期の文章などで言葉遣いは違っています。

 

このような言葉の変遷と現代の言葉の乱れは何か違うものなのか?

それを考えるうえでも古文を学び比較することは有用かもしれません。

専門家以外がそこまでする必要はないのかもしれませんが、何事にも自分の見解を持つことは大事なことだと思います。

 

最後に、日本の文化として、最低限知っていなければならないというものでもあるでしょう。

日本文化が何か特別な尊いものであるというつもりはありませんが、自分がどんなところで育ったのかを考えることは、世界で活躍するとしても大事なことでしょう。

自分の核を持たないものはいくら見せかけの知識をまとっても、薄い人間で終わってしまうのではないかと思ってしまいます。

 

古文に限らず、国語というのは人間としての中身を築くものなのかもしれません。

現代文を学ぶ意味

こんにちは。

 

数学、歴史と来て、次は国語に入りたいのですが、国語といっても、現代文と古文では捉え方として、かなり異なるところもあると思うので、まずは現代文から考えてみたいと思います。

 

現代文といっても、さらに物語文、随筆、評論などがあります。

そのため、現代文とまとめては考えられない部分もあるのですが、細かく分断し始めるとキリがないので、今回はまとめて考えます。

特に言及がなければ、現代文といわれるもの全体を想定しているとお考えください。

 

前置きが長くなりましたが、本題に入っていきます。

現代文というのは、学校の勉強の中でもかなり特殊な面があります。

それは、答えがない、答えが一つではない問があるということです。

 

選択肢形式や書き抜き形式などでは、答えは一つになりますが、自由記述などでは答えは一つではありません。

 

そのため、はっきりしなくて嫌いだという人も多くいます。

たしかに現代文は特性上、満点をとりにくい科目です。

採点する際、要素を満たしているかというような方法で採点しますが、その要素というのはどうしても出題者の主観になってしまいます。

 

解説を聞くと、そんな気もするけど、でも違う気もする。

納得感の薄い教科といえるでしょう。

 

しかし、一方でこれらの特性を持つ現代文は、勉強を単なる知識の取得ではく、考え方の取得だとみなすとするならば、勉強の目的を達するのに非常に優れた科目だとも言えます。

 

物語文の登場人物の心情や、評論の筆者の主張など、少しずつ人によって捉え方に差異が生じることは当然でしょう。

それを議論を通して、様々な考え方に触れ、その考え方をトレースし、新たな見方ができるようになる。

 

現代文の勉強というのは、他の人間と生きていくうえで欠かせない議論、話し合いというものを行うのに、非常に優れたものだと思います。

ですから、現代文の授業で先生が一方的にこの部分はこういうことを言っているのだと解説するだけで、生徒はそれを暗記し、テストの答案に書くというのでは、なかなか難しいのも事実でしょう。

 

現代文の勉強は一人ではなかなかできないものだと感じます。

 

私が現代文を勉強してきたなかで、一番タメになったと感じたのは、大学受験前の時期の特別授業でした。

私が通っていた高校では、旧センター試験(現在は名称、制度とも変わっているようですが、当時はセンター試験でしたので、以後センター試験とさせていただきます。)終了後、志望校ごとに分かれて、大学別の対策授業が開講されました。

 

その国語の授業(古文、漢文を含む)は、予め過去問を解いてきて、お互いで議論するというものでした。

先生も回答を作ってきて、先生も含めた10人くらいの人数で議論していました。

 

大学受験向けのテクニックとかではなく、その授業が全員にとって、受験合格に近づけるものかは少々疑問ですが、それぞれの回答は非常に多様で、大変刺激的な時間でした。

この授業が誰もに対してベストだと言うつもりは全くありませんし、人数的にも小さい規模だからできた面もあると思います。

また、高校まで12年間にわたり、現代文、国語というものを勉強してきた基礎があり、また、志望校も同じでレベルとしても近かったため、議論しやすい環境にあったということも無視できないでしょう。

 

ですが、私にとっては、この授業を通して視野が広がったと感じられました。

現代文を教えることはとても難しい。

私は、この高校生活最後の時期の現代文を担当してくださった、国語の先生をとても尊敬していますが、この方も、普段の授業は特別なことをしていたわけではなく、他の先生方と同じような授業形式でした。

 

ですが、一方的に知識として読み方を押し付けてしまうのか、生徒が自分の読み方を身につけられるようになる手助けをするのか、それによって、同じような外見の形式でも大きな違いになると思います。

 

現代文の勉強は文章にして、何かを伝えようとしたものを、必死に書き手に寄り添って、その意見を理解し、さらには、その考えに対して批判的(否定するという意味ではなく、鵜呑みにしないという意味)に検討をするという営みと言えると思います。

 

これは、文章を読むときはもちろん、人の話を聞くときにも重要なことでしょう。

現代文は答えが一つに定まらないところに意味があると思います。

そもそも、実社会で「正しいこと」なんてほとんどわからないのですから。

 

ただ、それでも点数をつけなくてはいけないところに、現代文の難しさがあるのでしょう。

特に入試のように膨大な答案の採点をする場合、たとえ、検討に値する考えをもっていても、模範解答と異なれば、点数をあげないという対応をせざるを得ない。

 

そうすると、点数をとるためには、見るべきものがある、尖った良さを持つ答案より、だれもがなんとなく納得する、万人受けする回答を作った方が良いということになります。

万人受けする回答を模範解答とする方が、納得感がありますから、これは仕方のないことでしょう。

 

かなり前に読んだ本なので記憶は曖昧ですが、ある方が、本の中で、受験生時代に、自分の思ったことを書いていたら落ちた。そうではなく、こういうことを書いてほしいのだろうなということを書けばいいんだと気づいて、書いてほしそうなことを書いたら合格した。みたいなニュアンスのことを書かれていたと思うのですが、現代文の試験というのはそういうものです。

 

この話に対して、私は二つの含意があると思います。

まずは、現代文の試験など、選抜以外の意味はないということ。

理解度を試すというより、単にそれっぽい回答をつくれるかどうかしか見れない。

ですから、テストの出来が悪いからといって、現代文ができないことにはならない、むしろ、文章について深い意味では何も理解していないけれど、それっぽい浅いことは考えつく浅薄な人間の方がうまくいく、そういうものだと。

 

ただ、別の見方もできます。

文章を読むということは、まずは、書き手の意図を想像する営みです。

その上で、批判的な検討をできればいいですが、相手の意図を理解しようとすることなく、いきなり自分の考えを主張する営みではない。

そうだとすれば、現代文の問題として出題されている以上、少なくとも出題者にはなんらかの意図があるはずであり、それを読み取ろうとすることは現代文の趣旨と異ならない。

だから、出題者の意向を無視して、自分の思ったことを書いて不合格になるのも仕方ないという見方もできます。

 

私はどちらの面もあると思っていますが、現代文のテストでよい得点を取ることと、現代文と言う科目の趣旨を理解できていることは別物であり、その意味ではテストはテストとしての価値しかないと思っています。

ですから、テストで良い点数を取れなかったからと言って、自分の見方がダメなわけではない。

逆にテストで点を取れたからといって、偉いわけではない。

単に採点者と意見があった、さらに言えば、採点者とさえ意見はあっていないかもしれず、採点者が見て、それっぽいと感じる回答を作れたというに過ぎないのです。

 

ですから、現代文でよい点数を取れないからといって、現代文の勉強を放棄しては欲しくない。

また、現代文でよい点数をとれるからといって、それで満足してはいけない。

 

私は幸いにも点数は良かったのですが、だからこそ、自戒しなければならないのです。

私は何もすごくないのだと。

単に先生の顔色を窺うことに長けていただけなのだと。

歴史を学ぶ意味

こんにちは。

 

前回の数学の話に引き続き、今回は歴史について考えていきます。

歴史といっても、日本史、世界史とあり、さらに地域や時代で細分化されますが、ここでは、細かい部分にはあまり立ち入らず、大まかにとらえて進めさせていただきます。

 

歴史も数学と同じくらいかそれ以上に必要ないと言われる科目かもしれません。

過去のことを学んで何になるのか?

過去だってどうでもいいじゃないか。

過去のことを知らなくても、生きていけるじゃないか。

私は未来を見てるので、過去は振り返りません

などなど。

 

興味のある人にはとても面白い科目かもしれない一方で、学ぶ意味を見出せず、苦痛でしかない人もいるかもしれません。

 

なぜ、歴史を学ぶのでしょうか?

過ぎた過去、しかも遠い過去の話を振り返る必要があるのでしょうか?

 

歴史を学ぶ意味として、自分のルーツを知るべきだからというようなことをおっしゃる方もいます。

しかし、私は必ずしも賛同できません。

まず、自分のルーツを知るべきというのが自明ではない。

なぜ、知るべきと言えるのかよくわからない。

 

私自身は、先祖がこんな方だったなどのルーツといえるものに興味はありますが、だからと言って、ルーツを知らなくてはいけないとは思いません。

自分を知る手がかりになるかもしれませんが、自分を枠に閉じ込めることにもなりかねません。

 

私は歴史を学ぶ意味は未来に活かすためだと考えています。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。プロイセンビスマルクの言葉とされています。

細かい説明のようなものは行いませんが、一人の経験というものは量的な意味だけでなく、特定の環境の人間でしかないというような質的な意味でも非常に限定的です。

しかも、経験は自分が見た主観的な視点しかなく、非常に危ういものです。

 

歴史というのは、多くの先人の行いが積み重なっており、さらに、様々な歴史家の検証を経ています。

歴史が事実の積み重ねだとは言いませんが、歴史に学ぶことにはやはり意義があります。

 

また、「歴史は繰り返す」という言葉もあります。

全く同じ事象ではないにしても、過去の歴史に学べることは非常に多いでしょう。

例えば、関ヶ原の戦いが行われたのは、岐阜県関ヶ原ですが、古代の壬申の乱関ヶ原で行われたと言われています。

 

関ヶ原の戦いの東軍の経路と壬申の乱大海人皇子軍の経路、関ヶ原の戦いの西軍の経路と壬申の乱大友皇子軍の経路は一致しているわけではないので、必ずしも一致はしていないですが、日本で大会戦が行える場所などそう多くはないですし、不破の関など要衝が近くにある場所という事情もありますから、偶然の一致でもないのでしょう。

 

おそらく、関ヶ原の戦いのとき、壬申の乱のことを意識していた人間もいるのではないでしょうか。

もし、意識した人間がいれば、決戦の地は関ケ原と予測できた人もいたかもしれません。

そうであれば、そこから逆算した準備ができるはずです。

 

実際にそういう人がいたのかはわかりませんが、歴史に学び、未来に備えられている人間と、歴史を学ばず、気づいたら関ヶ原にいた人間ではどちらの方が準備ができるでしょうか。

 

少し昔の話をしすぎたかもしれませんが、最近の状況でも歴史に学べることは少なくないと思います。

 

例えば、最近の国際情勢を見て、第二次世界大戦直前の状況と似ていると主張する論者もいます。

その説の適否には踏み込みませんが、その説を鵜呑みにするのでもなく、また無視するのでもないという姿勢は必要でしょう。

そのためには、自ら第二次世界大戦に至った歴史を学び、もっといえば、さらに、その前の状況や各国がそれぞれの立場を持つに至った歴史を学び、そして現在の状況と比較しながら、現状を分析し、自分なりに検討することが求められます。

 

歴史を学ぶか否かは、個人規模の人生は勿論、国家を世界を左右するほどの大きな違いをもたらしうると私は思っています。

だから、私は歴史を学びたいと思います。

 

ただ、歴史を学ぶということは、実は非常に難しい。

なぜなら、歴史は事実の積み重ねではなく、解釈の積み重ねだからです。

歴史はある人にとっての「真実」の積み重ねではあるかもしれませんが、「事実」の積み重ねだとは限りません。

 

この話に入るとまた長くなりそうですので、今回は一旦切り上げます。

また、どこかの機会にこの続きは書きましょう。

数学を学ぶ意味

こんにちは。

 

前回は勉強全体の話でしたが、今度は各教科について私が思っていることを書いてみたいと思います。

今回は数学です。

 ここでいう数学とは、算数というような基礎計算ではなく、学問と言えるような「数学」の方向で話したいと思います。

 

勉強なんて必要ないという方が、よく槍玉にあげられるのが数学かもしれません。

社会に出て、面積なんて求めない、微積なんて使わないなどなど。

たしかに知識としては使わない方も多いのかもしれません。

私も大学に入学してからは、数学の知識を使う機会はかなり減りました。

 

私は文系のため、学問における数学の重要性というのはあまり理解できていないと思います。

例えば世の中の物理法則を数学で表せるとか言われてもよくわかりません。

ですので、学問的なところに直接かかわる点はスルーさせていただきます。

 

では、今後も数学を駆使することがなさそうな、私のような文系の人間が数学を学ぶ意味はあるのでしょうか?

私はあると感じています。

 

なぜなら、論理的思考力を身につけるのに最適な学問だと感じるからです。

数学は証明などで顕著ですが、証明でなくても、論理的な回答が要求されると思います。

結論はあっているのに、説明不足で点を引かれたり、逆に結論は間違っていても、部分点をもらったりということがあります。

数学はそれだけ、結論を出す過程を大事にしています。

 

数学で必要とされるような、緻密な思考ができるということは、数学をやらなくても、非常に大事だと私は思います。

例えば何か企画を出すときに、なんとなく上手くいくと思いますでは、話にならないでしょう。

この企画の意義、効果などを説明するとき、論理的に説明できるということは大切だと思います。

 

私は社会人でないので、社会に出て役立つか否かは実際にはわかりませんが、法学を勉強するにあたり、私が勉強していて良かったと思った科目は数学です。

(次が歴史、国語…という順番です。)

 

なぜ、数学の勉強が大事だと感じたのか。

法律は想像がつくかもしれませんが、かなり緻密な論理によって成り立ちます。

例として刑法で正当防衛か過剰防衛かという境界の話を、実際の事例を基に簡単にします。

 

集合住宅に住むAさんが隣人Bさんを2階の廊下で鉄パイプを振り回して追い回したのですが、Aさんが階段の近くで勢い余って、階段の手すりに宙吊りになってしまい、追いかけられていたBさんが、宙吊りになっているAさんを下に突き落としたという事件です。

最高裁の判断としては、これは過剰防衛であるという判断になりました。

 

しかし、これは実は議論が分かれる判断で、実は批判も多い判例でもあります。

細かい話には立ち入りませんが、過剰防衛と判断する基準について、議論があります。 

正当防衛の要件(これを満たせば正当防衛になるという条件のようなもの)として、必要性、相当性というようなものが言われているのですが、AさんがBさんを突き落とす行為が相当性を満たすかというようなことが問題になります。

 

最高裁の判断としては、階段の手すりに宙吊りになっている時点で、すぐに復活する見込みがなく、Aさんは逃げるべきであった、鉄パイプで襲われる危険性に比べ、突き落とす行為は過剰であると判断しています。

 

しかし、この判断中のすぐに復活する見込みがない、逃げ切れるという判断の根拠が薄い(この事例でAさんは持病があり、Bさんと比べて体力的に劣っていた)などの批判もあり、もう少し明確な基準が必要という話があります。

 

その基準をどのように定立するのか、その基準に適合してるかをどのように判断するかなどかなり綿密な議論が必要になります。

このような基準をどう設定するかにおいて、どこで区別するべきかを考える必要があり、この区別するところを限界事例などといいますが、限界事例をどう設定するかを考えるにはかなり丁寧な議論が必要です。

 

素手で殴ってくる相手を近場の石で殴って殺してしまったら過剰防衛に思えますが、これが逃げ場がなく、相手の方が力が強く、軽い反撃では却って逆上させてしまう恐れがあるような事例だとすると、それでも過剰防衛と言えるかは微妙です。

 

どう基準を設けるかは、感覚だけで決められるものではなく、綿密な論理展開が求められます。

だからこそ、私は法律を学ぶのであれば、数学の勉強に取り組むべきだと思うのです。

もちろん、数学を学ばなくても論理的思考力を身につけることは可能でしょう。

しかし、身の回りにあって、確実に論理的思考力や議論の展開の仕方を学べるのは数学だと思っています。

 

その点で、私は文系ではありますが、二次試験で数学がある大学を受験していて良かったなと感じますし、受験勉強で一番役に立ったのは数学の問題に立ち向かった経験だと思っています。

 

こういうことを言ってるとスピード感が足りない、頭が固いと言われるかもしれません。

しかし、論理的に物事を見れるということは、チームで動く上ではとても重要なことだと思います。

 

ひとりでやるなら、ひらめきが当たる人でも問題ないですが、チームで動くときには、思考の過程がわからないと周りは言われたことをやるしかなく、効率は上がりませんし、その人が万が一抜けたら終わりです。

 

論理的であることは、必ずしも頭が固いこととは結び付きません。

頭が固くなりがちなのは弱点かもしれませんが、頭が固い原因を勉強に一生懸命取り組んできたことに求めるのは、少しずれている、短絡的だと思います。

 

勉強だけ、数学だけできればいいわけではありませんが、数学には、あらゆる学問や社会で成果を上げることに繋がる大事な要素が隠されていると私は感じています。