外国語を学ぶ意味

こんにちは。

 

今回は外国語について考えてみたいと思います。

学校で勉強する外国語といえば、英語が主だとは思いますので、英語を軸に考えますが、英語だけに限る話でもないのかなと思っています。

 

外国語については、勉強する意義を否定される方は少ないかもしれません。

学校で勉強する科目の中でも、英語は何に役立つかが、比較的明確に見えやすく、グローバル化が進む現代において、英語が必要なのは、理解しやすいと思います。

 

では、仮に同時翻訳が可能になり、その質も細かいニュアンスの取違がなくなったとしたら、つまり、知識としての外国語に意味がないとしたら、外国語を学ぶ意味はないのでしょうか?

 

私は、そんなことはないのではと思います。

言語はコミュニケーションの手段だと前回書きましたが、それはあくまで、表面上の話です。

 

私たちは物事を捉えるとき、言葉を使います。

言葉があるから、私たちはそれぞれの物体を分類して認識できるのではないでしょうか。

私は言葉というのは、物事の認識の仕方をも左右すると思います。

 

有名な話としては、虹の見え方は言語によって異なると言います。

日本人が虹を七色だと見るのは、七色の色があてはめられているからかもしれません。

 

また、言語の違いではありませんが、道端の草を見て、「雑草」という言葉で捉える人と、種で捉える人では見え方も違っているでしょう。

 

少し話がそれましたが、言葉というのは、私たちの者の捉え方と深い関係があります。

ですから、違う言葉を学ぶことは、違うとらえ方を学ぶことになると思うのです。

 

言葉はコミュニケーション手段でしかないかもしれませんが、それを学ぶことは、自分にない考えに触れ、世界を広げることに繋がると私は思います。

そして、さらには、自分のことを見つめなおす機会にもなると思うのです。

 

世界には様々な言語がありますが、その言語は現在急速に消滅しています。

コミュニケーションをとるという意味では、むしろ望ましいことなのかもしれません。

みんなが同じ言語で話せば、意思疎通の壁がなくなるとまでは言わなくても、小さくなるのですから。

 

けれども、言語を失うことは、その言語とともにあった一つの豊かな世界を失うことにもなります。

その意味をもっと深く考えなくてはいけないと私は思います。

 

日本でも、英語を公用語とする企業も増えていますし、外国企業との取引なども当たり前になってきており、もはや英語を初めとする外国語を学ぶことなく、生きていくことは難しくなりつつあります。

 

学校教育においても、英語教育は重視されており、英語を学び始める年齢はどんどん早まっていますし、今後も早まるかもしれません。

けれども、日本語の教育をおざなりにして、英語教育のみに力を注ぐ決断をするのだとしたら、日本語を、日本語とともにあった、文化、世界を捨てる覚悟が必要だと思います。 

 

外国語を学ぶことは、母語を見つめなおすことであり、自らが生きてきた文化を、世界を見つめなおすことであり、さらには自分自身を見つめなおすことなのではないでしょうか。