古文を学ぶ意味
こんにちは。
シリーズのようになってしまいつつある、~を学ぶ意味ですが、今回は古文について書きます。
古文を学ぶ意味として、現代文と共通する意味も当然あるでしょう。
古文はすらすら読めれば、普通の文章なわけで、読解という意味では、現代文と変わらないわけですから。
しかし、なぜ昔の文章を学ばなくてはいけないのか。
さらに、古文を読めなくても問題ないのではないか。
他の人の考えに触れるだけなら、現代文を読めばいいですし、時代の異なる文章を読むことに価値があるとしても、(例えば歴史を学ぶ意味のところで触れたような先人の知見に触れるということなど)誰かが現代語訳してくれたものを読めばいいではないか。
趣味で古文を読んだり、職業柄読んだりするほんの一部の人を除けば、学校以外で古文に触れる機会はそうそうないわけです。
それなのになぜ、古文を学ぶのでしょうか?
まず、原文を読めるのと、現代語訳されたものを読むのでは質が違うということはあると思います。
これは外国語にも共通する話ですが、訳されたものは、訳者の判断が入り込むことは避けられず、原文と全く同じニュアンスにはならないでしょう。
また、外国語の方がより顕著ではありますが、古文であっても、現代語と1対1で対応するわけではなく、言葉を置き換えるときに、含意に多少の変化が生じてしまうことは避けられません。
ですから、本当に書き手の思いに触れたいのであれば、原文を読むことは大変大事でしょう。
ただし、学校の授業くらいで原文をすらすら読めるわけではないでしょう。
また、書き手の思いに触れたいという方もそう多くはないでしょうから、これだけを理由とするのは難しいと思います。
私がより重要だと考えるのは、言語について深く知るのに、古文を学ぶのは有用だということです。
言語はコミュニケーションを助ける手段にすぎませんが、だからこそ、言葉について考えることは、コミュニケーションにおける重要な示唆を与えてくれると思います。
例えば、言葉の乱れというのは、よく言われるテーマですし、実際にコミュニケーションに問題を来しているのであれば、それは言葉の乱れがけしからんとかいう次元の話ではなく、世代間でのコミュニケーションを妨げているという点で大きな問題といえるのではないでしょうか。
しかし、言葉の乱れというのを考えるとき、何を基準に乱れていると判断するのかは非常に難しいものです。
元々の日本語というものがどこにあるのかは言語を専門としていない私にとっては、あまりわからないものですが、少なくとも古文の世界の日本語と今の日本語は大きく違っており、古文の世界から見れば、今の日本で飛び交っている言葉はすべて乱れていると言えるかもしれません。
古文を勉強された方ならわかるかと思いますが、古文といっても、源氏物語などの平安期の文章と平家物語、吾妻鏡などの鎌倉期の文章、太平記などの南北朝室町期の文章、塵芥集や今川仮名目録などの戦国期の文章、東海道中膝栗毛や奥の細道などの江戸期の文章などで言葉遣いは違っています。
このような言葉の変遷と現代の言葉の乱れは何か違うものなのか?
それを考えるうえでも古文を学び比較することは有用かもしれません。
専門家以外がそこまでする必要はないのかもしれませんが、何事にも自分の見解を持つことは大事なことだと思います。
最後に、日本の文化として、最低限知っていなければならないというものでもあるでしょう。
日本文化が何か特別な尊いものであるというつもりはありませんが、自分がどんなところで育ったのかを考えることは、世界で活躍するとしても大事なことでしょう。
自分の核を持たないものはいくら見せかけの知識をまとっても、薄い人間で終わってしまうのではないかと思ってしまいます。
古文に限らず、国語というのは人間としての中身を築くものなのかもしれません。