手加減

こんにちは。

前回、指導について思っていることを書きましたが、関連して手加減の話を書きたいと思います。

 

合気道は、型稽古のため、手加減するという事態が生じやすいという面を持っています。

良いこととは言えないですが、残念ながら事実です。

 

ただ、手加減が絶対的に悪いわけではないと思います。

他の競技であっても、初めのころは、負荷をかけず、形を教えて少しずつレベルアップするのに合わせて強度を上げていくということをすると思います。

 

しかし、合気道は試合がないために(富木流など試合がある流派も存在する)、全力の相手とやる機会が少なくなりやすいという問題を抱えているので、そこは注意が必要ですが、そこの話は型稽古について書いた記事に譲ります。

 

さて、手加減の話でしたが、先ほど書いたように必ずしも悪いことではありません。

先輩が全力で抵抗したら、ビクともしないこともあるわけで、技量のない後輩に対して抵抗し続けるのは、先輩の力を誇示するというつまらないプライド以外に意味がありません。

 

後輩がある程度できていたら、手加減してあげる方が、後輩の成長に資する場合も多くあります。

手加減という言葉を辞書で引くと、「物事をその場の状況に応じて適当に調節して取り扱うこと。」(旺文社第十版)とあります。

ただ、手を抜けばいいのではなく、適当に調節する。

これは必要なことだと思います。

 

一方で、後輩や弟子が先輩や先生に遠慮して十分にかかっていないのに、利いているフリをするような手加減も存在しているかもしれません。

 

あまり良くないと感じます。

もちろん、先輩や先生に技量がなく、自分が抵抗したら絶対に技をかけることができないというなら、抵抗するのは時間の無駄ですし、やられたフリをしていればよいでしょう。

 

しかし、基本的には全力で立ち向かう方がよいと思います。

そのほうが、先輩のためでもありますし、後輩の側にとっても、こういう相手に対してはこう対処するのだということを体感する貴重な機会です。

 

そもそも武道である以上、攻撃もロクにできないで、攻撃への対処だけ学んでも仕方ないと思います。

じゃあ合気道なんてやるなよという声も聞こえてきそうですが、以前のブログでも書いたように合気道は攻撃「される」のではなく、攻撃「させる」のです。

 

このままでは、自分がやられるかもしれないという状態に相手を陥らせるからこそ、攻撃させることができる。

そのためには、相手が何もしなければ、仕留めるだけの力量をもっていなくてはいけないと思います。

 

ですから、攻撃もできない合気道だけやっている人なんて、なんの意味もないと思います。

 

脱線しましたが、攻撃の仕方を学ぶことは非常に大事なことです。

それなのに、自分はやられ役と考えて手加減するのはおかしすぎる。

 

攻撃である以上、相手を倒すためにやらなくてはいけない。

ただし、相手の力量が自分より明らかに劣る場合は、怪我をさせないように調整が必要な場合が例外的に存在するだけだと思います。

 

後輩が全力で向かっていき、それで先輩が対処できないなら、先輩が悪いわけで、反省しなくてはいけないのは先輩の方です。

自分の技量のなさのために後輩に遠慮させてはいけない。

 

また合気道の話に終始してしましましたが、勉強などでも同じことではないでしょうか。

教師は、生徒の成長のために、時には手加減が必要な場面があると思いますが、生徒は手加減する必要はない。

全力で疑問をぶつけていけばいいのです。

 

それで答えられないなら先生が悪い。

特にプロとして、それで生活しているのですから。

 

ただ、こういう生徒が必ずしも好かれるわけではありません。

実際、私も高校時代、先生に議論をふっかけて、困らせてしまったことがないわけではありません。

幸い、度量のある方がそろっていたのか、目をつけられた記憶はありませんが、気づいてないだけかもしれません。

 

大学の先生方は、その点、優秀な方が多く、私ごときの疑問なら対処できるので、心配ありませんが。