自由とは?

こんにちは。

自己紹介についてくどくど書く回は終わったのですが、自己紹介つながりで今回の内容も書かせていただきます。

 

自由とは?

なぜこんなことを考えるのか、まず最近あった話をさせていただきます。

 

最近、内定をいただいている企業の内定者が集まる機会がありました。

そこで、自己紹介をしたのですが、その中で、「自分がこんな人だというのがわかるエピソードを話してください」と言われました。

 

今までの記事をもしお読みになっていれば、僕がこの手の質問を苦手としているのはわかるかとは思いますが、それはとりあえず置いときまして笑

 

そこである方が「私は自由人です」とおっしゃいました。

その根拠として、髪の毛を染めているということ、パーカーで来ていることを挙げていました。

(その日はスーツではなく、私服でと言われていました。)

 

しかし、私は疑問を持ってしまったのです。

茶髪だと、ビジネスカジュアルでなくパーカーだと自由だということになるのかと。

 

たしかに黒髪でスーツの人と比べると自由な人に思えるかもしれません。

でも、本当にそうなのか?

 

まず、茶髪やパーカーというのは典型的な「自由」ではないでしょうか?

髪を染めたり、ゆるい格好で過ごすというのはみんなが「自由」として思い浮かべるものの共通理解のようなものの一つです。

 

ですから、私はこれらは常識に縛られて「自由」だと感じてしまうのです。

世間のイメージする「自由」。

それをただなぞっているのが「自由」なのか。

 

だとしたら、結局「常識」の範囲をウロウロしているだけで、常識に凝り固まっている人間と全く異ならない、もっと言えば「常識」に縛られていないと感じているだけ、より質が悪いと感じてしまうのです。

 

自由というのは何なのか?

それを考え始めるとなかなかに難しいと感じます。

 

私は哲学を専攻しているわけではありませんが、法学部でも自由意志は存在するのかという議論を行います。

 

例えば、刑法の刑罰の意味というものを考えるとき、刑罰は過去の罪となる行為に対する応報であると考える応報刑論という考えがありますが、一見自明のようで、深く考えるとそうも言えません。

 

それが自由意志の議論と関係があるのですが、本当に自由意志は存在するのか、私たちが行動する上で、環境などの影響を受けていないと言えるか、自由意志がないとすれば、過去の行動を非難することはできないのではないか、そうすると過去の罪となる行為への応報という考え方で刑罰を正当化するのは根拠として弱いのではないかという議論がなされるわけです。(ものすごくざっくり書いているので、興味があれば、専門書を読むとか法学部の授業を聞くなどしてください。)

 

ですから、茶髪、パーカーを自由と考える人がいても、それは別にいいのですが、私にとってはそれを自由と捉えることはできません。

 

しかし、こう考えるのは面倒くさい。

こう考えると何も言えなくなってしまいます。

 

ここまでハードルを上げて、私はなんと自己紹介したのでしょう?

答えは「ポンコツ」です笑

 

ポンコツも考えていけば、それは本当にポンコツなのかと言えてしまうのですが、結局何も思いつかなくて、格好いいことだけは言いたくなかったんですよね。

 

どれだけひねくれているのか笑

 

こんな回答を出しておいて、「自由」と言った人を批判することなんてできませんね。